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歴史 新十津川町しんとつかわ)

 明治22年8月。奈良県吉野郡一帯をとてつもない豪雨が襲った。
その中に「鳥も通わぬ十津川の里」と太平記にかかれた山村・十津川村があったのである。
山や谷壁がなだれ落ち渓谷をせきとめ、せき止められた大量の水が堰を切って濁流となり、
怒涛のように向かっていく…。

 村が壊滅するほどの大水害であった。新たな生活地を求めて600戸・2489人が北海道への
移住を決断。「必ずや第2の郷土を建設する」と固い意図を胸に秘め旅立つことになった。
 このころ約1200キロ離れた北海道では、新たな胎動が起こっていた。屯田兵制度に続いて
明治19年には植民計画が採用され、全道的な開発が始まろうとしていたのである。特に「樺太
経営」と「ロシア南下への防備対策」から、その中継地としての石狩平野開拓は緊急課題であっ
た。こうした時代背景の中、その植民区画の第1号としトック原野に十津川村からの集団移住者
たちが入植したのである。明治23年6月のことであった。
  
 移住者たちはこの土地を「新十津川」と名付ける。もちろん単なる郷愁などではない。ふるさと
を離れる際に誓った「移住地に必ずや第二の郷土を建設する」との決意を再度思い起こし、そし
てまた母村の伝統と文化、十津川郷土としての誇りをこの地で伝え続けようとしたからであった。
しかし、母村と異なる厳しい自然条件の中にあって開墾は難渋を極め、耕地も思うように広がら
ない時期が続く。明治26年ごろからは自家食用作物以外の換金作物も増え、明治30年代に入る
と北陸地方などからの移住者により、水稲の作付けも本格化する。夜盗虫の大発生、石狩川の
氾濫などの災害に見舞われながらも、着実に農業基盤を固めていった。こうした歩みが明治35
年の二級町村制施行、40年の一級町村制施行へと結び付いていく。きわめて短期間での一級
町村昇格は新十津川の急速な発展を示すものであり、何よりも開基以来の入植者たちの不屈
の取り組みの賜物であったといえる。
 
 大正期に入ると人口は1万5000人を超え、農業生産力や財政規模の面でも空知管内で屈指の
自治体へと成長していく。水田の開墾に加えて「玉置坊主」という冷害に強い水稲品種を開発、こ
れによって道内でも第一級の米作地帯となった。石狩川の洪水に備えた治水事業もこの時期に
取り組まれている。

 冷害と凶作、そして戦争という厳しい時代を村民たちはよく助け合い乗り越えていった。戦争終
結と共に息を吹き返した新十津川は、昭和32年1月、ついに念願の町制施行を実現する。開村
以来67年を経ての節目であった。町として歩み始めた新十津川は、日本の経済成長と歩調を合
わせるごとく施設整備や生活環境整備を推進していく。しかし一方、昭和30年の1万6199人をピ
ークに人口は減少傾向をたどり、他の多くの農山村と同じく過疎傾向という新たな課題を抱えて
いく。そうした時代の流れに対応した取り組みを進めつつ、平成2年には開基100年を迎えている。
 「北の地に理想郷を」という大きな夢に向かって歩んできた新十津川の人々。開基以来の先人た
ちの労苦を常に受けとめながら、新たな時代に新たな新十津川を創っていくために、長い長い歩み
を今も続けている。

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